思いやる心
1995年春、震災の直後の診療所にやっと水道と下水が再開した頃に私はわがままを言って横浜の学会へ参加させていただきました。
神戸の歩道はウェーブして電柱は傾き、路地にはまだ瓦礫が残る頃訪れた横浜は昔の神戸に似た懐かしい街だった。揺れないし平らな地面を歩くことが嬉しかった。しかしリュックサックを担いだ「震災ルック」の私はその街では異邦人に見えたと思う。被災からたった3ヶ月過ぎただけで、神戸の震災のことは既に過去のことになっているような「外の世界」に取り残された気持ちがした。
だから2011年3月に東日本地震大津波と福島原発事故が起こったとき「まず現地に行かねばならない。そしてずっと思い続けよう、それには何かの形で支えなければならぬ。」と思った。偶然にも前の年から灘診療所には大船渡出身の千葉先生が働いてくれていたし、福島には親しい友がたくさん働いている。神戸で被災した1995年に全国から助けられた私たちがすべきことは東の地で苦難する人々とつながり、彼らを思い続けることだと思った。同じ本州という地面でつながった同じ陸地の上なのだけれどそのような努力をしなければこの思いはいつの間にか薄れてしまうのだ。
私がやっと福島へ訪問できたのは4月初旬だったし、大船渡へ人を送ることができたのはさらにその後だった。遅ればせの支援ながら現地の方々は喜んでくださった。そして暖かく迎え、心を開いてくださった。
手元にはもう36号になった「心つないで」というろっこう医療生協組織内ニュースがある。この金丸専務の手作りニュースには毎号に神戸と大船渡・福島の縁が結ばれていく様子が報告されている。
昨年夏から秋にかけて多くの職員が大船渡を訪問し1週間を過ごし、現地を知って帰ってきた。たとえば8月16日の報告写真には絆と書いた提灯が写っているが、その後ろに広がる夕闇に車や船が横たわっている。その向こうには波にさらわれた地面が広がるのだろうか。
現地の行ってくれた職員の皆さんご苦労様でした。その目で見てその耳で聞いた報告は生協の仲間にも伝え広がる。職員の行動をつばさ募金として組合員が支えてくれている。つながり続ける思いがさらには組合員の具体的参加でさらに広がろうとしている。春はイカナゴ届け隊という形で、夏はまた新たな取り組みが創意工夫されるだろう。
ろっこう医療生協の組合員と職員ができたこと、今からできることは大きな被災地域のなかの小さな一部への連帯かもしれないが、私たちができることはせめて出会えた縁を大切にしながらできることを精一杯努力することだと思う。夏に来てくれた福島っ子たちや避難所・仮設住宅で話をしてくださった被災者の皆さんの笑顔を忘れずに次の行動につなげていかねばならない。
最後に現地には行かれないが、自分の職場から派遣される仲間を暖かく送り出し、現場職務を守ってくれた職員全員と有形無形の応援をしてくださる組合員さんたちにも同じくお礼を言いたい。ありがとうございます。これからも共にがんばりましょう。
村上正治