1995年まで
阪神淡路大震災前の班会はほとんど毎回、医師・看護師が参加して組合員とともに検尿や血圧チェックをし、高血圧や減塩の話、野菜のとり方やカルシウムをどのくらいとるべきかの勉強会をする集まりだった。当時は班が50ほどあって、地域に生協の保健予防活動を作っていくことが私たちの仕事であった。
写真:1990年頃の班会
しかし、震災で組合員の半数の家が壊れてしまい、遠い仮設住宅に移動した人、市外に転居した人も多く、集まる場所もないため50あった班会も10に減ってしまった。震災数年目に鳴海妥理事長の号令で「班会を100にする」ことが決まった。これまでのお茶の間を使った班会も続けるが地域の公共スペースや自前の集会室を作って会場とする。集会室では班会以外の趣味・運動のサークルも企画した。これまでの班会のつながりも残しながら自宅以外の場所に遠くからも仲間が集うための場所を準備した。さいわいボランティアで手芸や木彫り、水彩画などの講師が来てくださってサークル活動も活況を呈した。健康班会の数は2002年には95まで増えた。組合員数も一万人となった。
居場所の大切さ
4月の健康いちばん、鳴海前理事長の文章にあるように私たちも班会・サークル・けんこうクラブという形で「居場所」を作ってきたわけだが、私自身には組合員のニーズに応えて、仲間を増やし組織することが目的であってそのような集まりそのものが、人が生きるために必要なものであるということは意識してこなかった。
阪神震災の翌年に昼休みの休憩室に神戸大学の学生たちが数人、尋ねてきたことがある。彼らは「地域の福祉施設を訪問してレポートする」テーマを与えられ灘区をさまよっていたのであるが、近所の銭湯や床屋に行き「地域の年寄りがたくさんより所にしているのは医療生協の灘診療所やなぁ」ときいて訪問してきたのである。この場合の福祉施設とは「人が集って癒やされるところ、交流生活の場所」ということらしかった。灘診療所もその頃言われた「老人のサロン」であったのだが、福祉の場にふさわしいと地域で噂されたことは嬉しかった。ひとには「居場所」が必要なのである。
うはらクリニックがある地域は震災後に同じ家に住む人は20%以下と言われるほど家屋が倒壊してしまった地域であり、住民の流動化が進んでいる。しかしこの地域には生協以外でも多くの居場所が企画運営されている。この地域だからこそ人はつながりを求めているし、それに応えようとする運動も増え、広がっていることを実感する。
ふれあいサロン
うはらクリニックができて間もない頃、70過ぎの母親を娘さんが診察に連れてきた。「クリニックの前を通ると出てくる患者さんがみなニコニコしているのでここにかかれば母親も明るくなるかも知れないと思って」連れてきたという。その後3年たち、娘さんに感想をきいてみた。
「大阪から神戸に呼んで一緒に暮らすつもりでしたが、母が旦那に気を使い、別で近所に住むことになりました。徒歩1分ほどの距離です。近くのうはらクリニックに行くように勧めて初診の日、受付に飾ってある折り紙を見て「誰が作ってるんですか?」と尋ねると、「ふれあいサロンで折り紙をしてるので、よかったら参加しませんか?」とスタッフの方に誘ってもらったのがきっかけで参加するようになりました。ふれあいサロンのあとは、顔の表情や声が違う感じがします。
こんなん作ったよ、と言って話をきくことも増えました。家には折り紙で作った作品がたくさんあります。誰も知らない、友達もいない状態で大阪から神戸に連れて来て、不安もありましたが自分で行ける居場所があって本当にうれしいです。耳も遠いので参加しても大丈夫かと心配もしていましたが皆さんと楽しくしているようで安心しました。」
医療生協ももうすぐ40周年、班会やサークルの数は200となった。健康や趣味の目的で集まった人々が、次には人とつながって生きることが目的となり仲間を大切に思う。そのつながりが自分たちの暮らしや人生を、そして社会全体をゆたかなものにすると信じている。
ろっこう医療生協 村上正治